「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」
1988年/日本
久しぶりに観たんですけれど、不思議と今まで観たときとは少し違う印象を受けました。
簡単に展開を説明すると、地球に居座る人間に絶望したシャアが巨大な隕石を地球に落とすことによって粛清をしようというのをアムロが止めようとする話です。
これまでそう理解していたし、実際大筋ではその流れで間違いないのですが、話をよく見てみると、実は映画そのもののテーマは地球の環境云々ではなく、あくまでシャアの人としての情けなさを露わにした作品であるんですよね。
ポイントはシャアとアムロとララァの三人の関係性であり、ララァに母親を見ていたシャアが、アムロの出現によってその機会を奪われてしまったという一年戦争時のエピソードにあります。
シャアはこれまでも本作でもジオン・ダイクンの子として大義を語り続けますが、実はシャアそのものは自ら口にする大義に対して執着しているのではなく、あくまでアムロを同じニュータイプの人間として倒すことによって、ララァを奪われたというトラウマを乗り越える、つまりそこにこそ自らのアイデンティティを感じているんですね。
技術的に劣っていたサイコフレームの情報をロンドベルに提供したり、総帥であるにも関わらず、わざわざアムロと決着をつけようとする点などにおいて明らかにシャアの本音を感じられます。
そうなってくると、話の中で重要なキーパーソンとして浮かび上がってくるのがクェス・パラヤなんですよね。
なぜクェスが重要になってくるのかというと、クェスは男女の違いはあれどシャアと重なり合う部分が多いんですよね。
つまりシャアが無意識に母親を追い続けているのに対して、クェスは連邦政府高官としてクェスと向き合わない父親に代わる、父親代わりの男性を求めているというところが同じなんです。
シャアは劇中でクエスにララァを重ねますが、何のことはない、実は自分こそがクェスと重なり合う部分が多い人間なのであり、だからこそクェスをニュータイプとして利用しながらも精神的には同族嫌悪のような感覚を抱いていたのですね。
一方でアムロは、一年戦争時やグリプス戦役時に比べて、明らかにちょっと大人になっている。
若干、まだ不安定さはあるものの、若いときのような揺れが大きくありません。
それは恋人であるチェーンとの関係を見ても分かります。
お互いに信頼し合って、しっかりと絆のようなものが生まれていますからね。
小説版では、チェーンの位置がそのまま、グリプス戦役時において恋人関係であったベルトーチカ・イルマなんですが、確かに飛び回って好きなことを言うタイプのベルトーチカよりも、落ち付いた雰囲気を持つチェーンの方が、アムロに対して親和力があるように思われます。
そして、そんなチェーンがそばにいるからこそ、アムロはかつてのララァの亡霊から脱却しつつあり(まだ夢に見ますが)、少なくとも、前に進もうと、他人を信用しようという考えるようになっているんです。
そしてそんな風に成長したアムロからすれば、変わらないシャア、変わらないどころか、自分自身と向き合うこともなく、大義だけを口にして暴走するシャアは、イラつく対象にしかなりません。
表向きララァを思わせるクェスに対する二人の態度が、二人の現在の立ち位置をうまく表しているんですね。
そしてここそがテーマであるということは、アムロとシャアの最後の会話を見ても分かります。
散々、地球のこととか、壮大な話をぶつけ合いながらも、結局アムロの発言によって、シャアが自分がクェスに父親を求められているからこそ、彼女を疎んじ、マシーンとして扱ったということを理解するところで終わりますからね。
一年戦争の話から見ると、アムロとシャアの対立構図は面白く、最後にシャアを思いっきり落とすというところに、冨野さんの猛烈な意思を感じますね。
この時代に、これをさりげなくやっているのはすごいです。
惜しむらくは、クェスのキャラクターですかね。
どうしてもニュータイプの女性というと、天真爛漫さとエキセントリックさを兼ね合わせた感じなのですが、ちょっとあまりにフォウ・ムラサメ以来の類型になってしまっているような気がします。
立ち位置的には面白いキャラクターだったので、もうここは深く描いてほしかったなと思います。